私は自然の一部だと本気で思っている人は、人を傷つけることができない
はじめに
痛ましい事件の報道に触れるたびに、胸の奥がざわつく。
なぜ人は、人を傷つけてしまうのか。
なぜ命が、こんなにも簡単に奪われてしまうのか。
多くの対策が語られ、制度が整えられても、それでも繰り返される暴力や絶望の連鎖。
それを止める根本的な鍵は、法律や罰ではなく、「私たちは自然の一部である」という繋がりの実感ではないかと思う。
この感覚が育まれていれば、人は決して命を軽んじることができない。
この記事では、その「広い共同体感覚」が持つ力について考えてみたい。
命の重さを本当に感じるには
人を殺してはいけない。
これは誰もが知っている言葉だ。
でも、日々流れてくる事件の報道を前にして、その当たり前が、どこか遠い理想のようにも思える。
法律、道徳、罰。
どれも大切だと思う。
でも、もっと根本的に命が大切だと実感できるような感覚が育たなければ、どんな制度もどこか空虚に響いてしまう。
私は自然の一部であるという感覚
最近、確信していることがある。
私は自然の一部だ。
本気でそう感じられる人は、人を傷つけることができない。
人間は社会の一員である前に、自然の中の一存在だ。
川が流れ、風が吹き、植物が芽を出し、命が巡っていく。
その一連の流れのなかに、私たち自身も静かに含まれている。
私たちが木を切れば、森は傷つく。
海に毒を流せば、魚は死に、巡り巡って私たちの命も蝕まれる。
同じように、誰かを侮辱すれば、社会の空気が濁り、それは自分の呼吸にも返ってくる。
すべてがつながっている。
だからこそ、他人を傷つけることは、自分を切り離すことに等しい。
存在の感覚が自己肯定になる
逆もまた同じだと思う。
私は自然の一部だと感じている人は、他人からの暴力的な言葉や態度によって、自分の価値を見失うことがない。
なぜなら、自分の存在は社会の評価ではなく、存在そのものから根づいているから。
殺してはいけないより先に伝えるべきこと
だから私は思う。
殺してはいけないと教えるよりも先に、あなたは自然の一部なんだと伝えるべきだと。
誰かを追い詰める前に。
誰かを傷つける前に。
社会に背を向けてしまう前に。
その人が、どれだけ大きなつながりの中で生かされているのか、教えられる大人でありたい。
私たちは社会の歯車ではなく、命の循環の中の一員なのだと。
未来に必要なのは感性の教育
もし万博のような場所が、未来技術の展示だけでなく、こうしたつながりの感性を育む空間になれたなら。
いのちを輝かせる未来社会という言葉も、決して絵空事ではなくなるはずだ。
結びに代えて
私は自然の一部だと本気で思っている人は、人を傷つけることができない。
それは、どんな倫理や法律よりも根深い、平和のかたちだと私は信じている。
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