集団の中で他の人と楽しく過ごせる人

はじめに

自分はタイトルのタイプの人間ではない。

小、中、高、大、社会人を経験して、現在は32歳。

先ほど、名古屋の街を気分転換に何も持たずに歩いてきた。

そこで、これまで順調に他者との関係を築いてきたいわゆる「コミュニケーションが良好な人」との距離が近いところを歩いていた。

彼(彼女)らは、多数派なのかもしれない。

それとも、目立つだけで、少数派なのか?

自分が面接で落とされるのは、コミュニケーションが良好ではないから。

確かに、業務を進める上で、コミュニケーションが良好の方がスムーズに仕事が進むだろう。

だからと言って、卑屈になってはいけない。

みんな宇宙船地球号の仲間である。

同じ「死」というゴールに向かっている。

ここでは、共存する方法について考えたい。

劣等感を認めて、参考にする

そういったコミュニケーションが良好な人とすれ違ったり、後ろで楽しそうにしている気配がした時は、自分と比較して、劣等感を本能的に感じてしまう。

嫌われる勇気に劣等コンプレックスを感じてはいけないとある。

劣等感は「優越性の追求」という人間が持つ健全な欲求だから問題ない。

害はない。

問題は、劣等コンプレックス。

自分よりも一つの定規で優れている人と比べて、劣等コンプレックスを抱いて卑屈になるのは、たった一度の人生戦略として間違っている。

だから、劣等コンプレックスではなく、ありがたく、参考にしよう。

今の世の中が便利なのは、コミュニケーションが良好な人たちがお互いに協力して具体的な成果物を作り上げた結果だ。

それに感謝する。

沙羅蒼樹の花の色、盛者必衰の理を表す

そうは言っても、こちらの配慮なく、笑い声を響かせていたりする人は、いつの時代にもいるものだ。

本人たちは迷惑をかけているという自覚があるのかどうかは分からないが、こういった人たちを「盛者」と呼ぶことにしよう。

彼(彼女)らもいずれ沙羅蒼樹の花が色褪せるように衰退していく。

現実として、夜はみんな眠りにつく。

自分も相手も存在のレベルで承認する

この比較社会で生きていると、どうしても、「見た目がいいから」とか、「会話していて面白いから」という理由で、人が人を選別する。

けど、みんなこの2025年を生きている仲間。

奇跡的に、この平和な令和を生きている。

その奇跡に感動して、どんな相手でもまずは存在のレベルで承認する。

それが、結局は自分を承認することにつながる。

条件付きの承認ではなく、無条件の承認。

そのために必要なことは何か?

外部依存性を低くする

「この社会は静かにあなたを呪う」という本に書いてあったことの一つに、「幸せにならなければいけない」という呪いがあった。

これは、本当にその通り。

街に出ると(特に、平日の学校社会や会社で他者とのコミュニケーションが良好な人)、笑い声で溢れている。

これは、喜ばしいことなのかもしれない。

笑い声で溢れる世界は素晴らしいという意見の方が多いかもしれない。

でも、人生の本質を求める私のような人間からしてみれば、嫌だ。

これは、自分がそれに馴染めないから、そういう理屈を作り出しているだけなのかもしれない。

それでも、この令和の時代には、「他の人と楽しそうにしなければ、幸せになれない」という呪いがかかっている。

理想は、誰もが無条件に自分の人生の意味を感じられるような社会。

その理想は、まだ遠いのかもしれない。

自分はこの性格のまま内側からのエネルギーを燃やし続けていく。

自分の文化を作り続けていく。

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