DARMA GRAND PRIX
はじめに
ヨルシカがカバーしているこちらの楽曲について考察した。
被害者ヘブンで管巻くか
ここで言う「ヘブン」とは、安心していられる場所という意味。管巻くは、永遠と愚痴のようなことを話している様子を表している。全体としては、被害者の溜まり場と思ってもらえればいいと思う。
だるまさん転んだ
だーるまさんが転んだ!で、鬼役の人に近づいていって、動いたら(鬼に見つかったら)負けというゲーム。この曲のタイトルにもなっている。
だるまさん転んだの逆再生
眠れぬ夜と死体、多忙貧乏退屈と期待、からいかに逃げ逐せるかの、だるまさん転んだの逆再生とある。前の文の最初に挙げた眠れぬ夜などがだるまさん転んだの鬼となる。逆再生だから、死体というのがよく分からない(いや、狭心症でどこにも死体が落ちてないと言っていることから、本当はこの世界のどこかで死んでいっている人たちのことを指しているんだろう)、そういった多忙などから遠ざかっていく様を表している。老いるにつれて、多忙からは遠ざかる。眠れぬ夜からも遠ざかる。
被害者敗者復活の時
自分がブログでやっていることと重なる。市場の競争にさらされたら、自分なんて負けてしまう。どんな人でも何かしらの勝負の舞台では負けてしまう。負けて悔しい思いをしたとしても、最後に自分自身を認めてあげられる、笑ってあげられるのは自分自身しかいない。寝る時はみんな1人。孤独と向き合うことがとても大事。その時に、何かしらの被害者敗者である自分自身を肯定してあげよう。そして、復活する(翌朝)。1, 2, 3、1、1、3, 4, 5、4, 3, 2, 1というカウントがある。これは、被害者敗者復活の時を表している。自らの生の絶対的な肯定。この時に流れている軋んでいるような音は、実況中継でも流れていた。洋次郎が考える死の間際の挿入メロディー。
このプールは泳ぐにはもう吐きそうなくらいエグいよ
これは資本主義社会の海のことを表している。学校、会社で無作為にそこに偶然居合わせた人と週5日間も過ごす。そのような仕組みに放り込まれた私たち現代人。つまらないあいつと話せるようになることだけを命題にとは、自分で選んだわけでもない相手と長時間共に過ごさなければいけない苦しみを表現している。どんな人も平等に価値があるというのが理想だが、洋次郎の意固地がそうさせないということだろう。その相手方がどれだけ愛を持っていたとしても、被害者そして敗者だったとしても。最後に勝つのはこの僕の方と言っている。この曲の世界観と照らし合わせると、被害者敗者復活の時がこの世で一番無敵と言った後に、最後に勝つのは僕の方。つまり、洋次郎はこの曲では加害者思想になっているのか?確かに、売れて資本主義社会の億万笑者になっているのかもしれない。そして、最後に勝つのはこの僕の方。といこうことは、win-winを望んでいるのだろう。確かに、死に際に、他者との現実的な比較の中で勝ったり負けたりしてきたとしても(それが心残りだったとしても)、どちらも勝っているとしたほうが笑える。自分の人生を絶対的に肯定できる。
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