Nobody homeを聴いてインスピレーションを受けたこと
はじめに
最近、Takaが石丸知事と対談している動画を見た。
そこで、Nobody homeについて触れられていた気がする。
この曲は、森家の家族について歌った曲。
自分の人生ともリンクする部分があったので記事を書いていく。
何かに触れてインスピレーションを受けたら記事を書く。
私の人生はこの繰り返しだ。
自分の言語感覚が研ぎ澄まされていく。
尾張一宮のアパホテル
札幌のビジネスホテルに勤務していた頃、愛知県一宮市に帰ってきた時のこと。
元々住んでいた親の実家に泊まったが、喧嘩になってしまった。
あの頃は、自分の夢のようなものや理想が強く、コミュニケーションはこうあるべきだというのがあって、それに親が合致していなかったのか、強い反発を覚えていた。
自分自身もまだ未熟だったし、社会生活に不安を抱えていた。
同世代と比べた劣等感もあった。
家を出ていったあと、尾張一宮のアパホテルにお金を払って泊まったわけだが、そこでなぜか涙が出てきたことを覚えている。
あの時は、情緒不安定だった。
怒りの感情が強く、もう二度とあの実家には帰らないだろうと思っていた。
当時はまだ生きていた「まる」にももう会えないと思ったら涙が出てきた。
少し後悔が残っていたので、親に謝罪の手紙を書いて郵送した記憶がある。
郵送したか、ドアの下からその紙を入れたかは覚えていない。
直接自分の思いを伝えるよりも、紙に書いたほうが本音が出る。
今もそう。
口頭だと自分の心に嘘をついてしまう。
あの時も僕の背中を強く押してくれてたんだね
怒りの感情に任せて家を出て行った時も、「まる」を初めとする私の家族は自分の背中を押してくれていたはずだ。
まるはもうこの世にいないが、あの時と同じように、無限の宇宙から自分を見守ってくれていると信じている。
自分の親も同じように。
人間関係は時間が解決してくれるもので、札幌のビジネスホテルを辞めた後は、実家に帰ってきて、晩年のまると近くで過ごすことができてよかった。
その時のプログラミングの仕事に近いITの仕事を続けることができている。
なんとか社会人生活を送れている。
せっかくだから、コンフォートゾーンを抜け出して、挑戦していこう。
ワンオクの曲をもう一度聴くために。
聞くではなく聴く。
先週の電話対応研修で、きくには、「聞く」と「聴く」があることを学んだ。
前者は、ただ耳に入ること。
後者は、深く理解すること。
自分を変えることで、もう一度ワンオクの曲を深く聴けるようになりたい。
正直、地元の愛知県は刺激が足りない。
もっと遠くへ。
最先端の東京でも大阪でも構わない。
基準を上げていこう。
でも外側の環境が全てではないこともわかっている。
でも影響されることも多いこともわかっている。
それは、東京や大阪に旅行に行ったときに気づく。
環境を変えるべきときなのかもしれない。
自分を変える努力を継続しつつ、環境も変えていこう。
もう2026年1月が終了した。
早い。
今年中を目処に自分をコンフォートゾーンから脱出させたい。
要点まとめ
**「Nobody home」**をきっかけに、過去の痛みと家族(そして「まる」)への愛情が“言葉”として立ち上がってきた。
家を出た出来事は、単なる喧嘩ではなく、未熟さ・不安・劣等感を抱えたままの実存的な決断だった。
「聞く」→「聴く」への転換は、音楽の話であると同時に、人生を“深く理解して生き直す”態度の宣言になっている。
環境(愛知/東京/大阪)への渇望は逃避ではなく、自分の感受性を再起動させる“場”を求める意思として描かれている。
インスピレーションは「外から来る」のではなく「内側が共鳴する」
人は何かに触れたとき、外側の情報をただ受け取っているようでいて、実際には自分の内側に眠っていた意味が反応している。
同じ曲を聴いても、何も起こらない日がある。逆に、ある日だけ胸が痛くなる。これは曲が変わったのではなく、こちらの存在の状態が変わったということだ。
哲学的に言えば、世界は固定された“事実”ではなく、こちらの生の状態によって姿を変える“現れ”でもある。
だから「何かに触れて記事を書く」という反復は、単なる趣味ではない。自分の存在をアップデートする儀式になっている。
家を出るという行為は、未熟さだけでなく「自由の痛み」でもある
怒りに任せて家を出る——それは若さや未熟さの表れでもある。けれど同時に、もっと深い層では、自分の人生を自分で引き受けようとする自由の痛みでもある。
自由は気持ちいいものじゃない。
自由は「選んだのは自分だ」と突きつけてくるから、怖い。
だから涙が出る。涙は“弱さ”ではなく、選択の重さを身体が理解したサインでもある。
涙は「過去の自分」と「今の自分」が交差した地点で起こる
尾張一宮のホテルで涙が出たのは、単に情緒不安定だったからだけではない。
哲学的に見ると涙は、時間が折り重なる瞬間に起こりやすい。
- 過去の自分(怒り、不安、劣等感)
- 今の自分(理解したい、やり直したい、愛したい)
この二つが同じ場所で出会うとき、心は言葉より先に反応する。
涙は、説明できないままの真実が“あふれ出る”現象だ。
手紙は「関係の修復」ではなく「自己の誠実さ」を守る技術
口頭だと嘘をつく。紙だと本音が出る。
これは性格の問題というより、言語が持つモードの違いに近い。
会話は、相手の反応・空気・タイミングに影響される。
手紙は、沈黙の中で自分の心の深い層に触れられる。
だから手紙は、相手のためだけじゃない。自分が自分を裏切らないための形式でもある。
「本音が出る場所」を知っているのは、かなり強い。
それはあなたの人生を支える、ちゃんとした“技術”だ。
「まる」は不在になったのではなく、倫理として残っている
“もうこの世にいない”という言い方は、事実としては正しい。
でも人間の生は、事実だけでできていない。
愛した存在は、消えるのではなく、こちらの行動の中に残る。
優しくなれる瞬間、踏みとどまれる瞬間、誰かに謝れる瞬間。
そこに「まる」がいる。
だから「見守ってくれている」という感覚は、非科学的な逃避ではなく、
自分の生き方を良い方向に曲げる力(倫理)としての実在とも言える。
「聴く」とは、解釈しながら生きること
「聞く」と「聴く」の違いは、音楽の話に留まらない。
“聴く”とは、対象を自分の人生の文脈に編み込むことだ。
深く聴くとは、曲を理解することではなく、
曲によって自分が理解されるという体験でもある。
同じ曲を、もう一度深く聴きたい。
そのために自分を変えたい。
これは、人生を「消費」ではなく「解釈」として生きたい、という宣言になっている。
環境を変えたい衝動は、逃げではなく「可能性の回収」でもある
愛知は刺激が足りない。東京でも大阪でもいい。
この感覚には危うさもある(環境依存になりやすい)。
でも同時に、健全な核心もある。
人は環境に影響される。
だからこそ、環境を選ぶことは、わがままではなく、自分の可能性を回収する行為でもある。
ただし、哲学的に一つだけ釘を刺すなら——
「外を変えれば内が変わる」ではなく、
内を育てるために外を選ぶ、が美しい順序だ。
あなたはすでに「外側の環境が全てではない」と書けている。
この一文がある限り、環境変更は逃避ではなく“戦略”になり得る。
コンフォートゾーンを抜けるとは「新しい自分になる」より「本来の自分に戻る」
挑戦という言葉は、強い人のものに見える。
でも本質は逆で、挑戦とはしばしば、自分の感受性が鈍るのを拒否する行為だ。
あなたがやりたいのは、派手な成功ではなく、
「もう一度、深く聴ける自分」になること。
つまり、外側の自分を作るというより、本来の自分の感度を取り戻すことだ。
その動機は、とても静かで、強い。
最後に差し込める一文案(締めの哲学)
人生は、過去の痛みを消すことではなく、痛みが意味に変わる地点まで歩くことだ。
そして意味は、いつも「誰かを愛した記憶」から立ち上がってくる。
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