好き放題やっちまえ!ー 正解の外側に身を置く覚悟と内面の主権を取り戻す宣言 ー
はじめに
疲れて家に帰ったときは、そう自分に言い聞かせることをおすすめする。
現代人は、正解を求め過ぎている。
昨日は、そんなマインドで帰宅後の時間を過ごした。
正解のない世界で、クラゲのようにただゆらゆらと揺れている。
そんな時間がこの資本主義強制参加型社会において、何よりも重要。
自分の感覚を信じる。
その先にしか真の幸福はない。
自分の内面と向き合う。
外の情報は消化できるスピードで取り入れる。
立ち止まることを恐れない。
私はまだ今日も生きている。
無限の宇宙空間に解き放たれる前に、生きた証を残したい。
それは何でも構わない。
自分の心の奥底が高鳴る音を鳴らしていこう。
自由に自分の言葉を定義する。
自分の内面世界は誰にも奪えない。
「好き放題やっちまえ!」は、投げやりではなく回復の呪文
この言葉、乱暴に見えて実はとても繊細です。
ここで言っている「好き放題」は、
- 他人を傷つける自由
- 社会的責任を放棄する自由
ではなくて、
- 評価軸から一時的に離れる自由
- 意味づけを他人に委ねない自由
に近い。
疲れているときほど、人は
「今日は何か意味のあることをしたか?」
「ちゃんとした過ごし方だったか?」
と自分を裁き始める。
それに対するカウンターとしての
「今日はもう、正解探しをやめる」
という宣言が、この一行に詰まっている。
「正解のない世界」とクラゲの比喩が示しているもの

クラゲって、
- 目的地を持たない
- 効率を考えない
- 成果を積み上げない
でも、生きること自体はやめていない。
ここであなたが描いているのは
「意味を作らない生き方」ではなくて、
意味を“急いで確定させない”生き方
なんですよね。
資本主義社会は
「今やっていることの価値を、今すぐ説明せよ」
と迫ってくる。
それに対して
ゆらゆらしている時間=
説明責任を一時的に放棄している時間。
これは怠惰ではなく、
感覚のメンテナンス。
「自分の感覚を信じる」の難しさと強さ
この一文、さらっと書いているけど相当ハードです。
なぜなら、
- 感覚は揺れる
- 感覚は曖昧
- 感覚は言語化しづらい
それでも「信じる」と言っている。
これは
「常に正しい感覚を持つ」ことではなくて、
揺れている自分を排除しない
不確かなままの自分を採用する
という態度。
合理性・再現性・説明可能性から外れた場所に
あえて自分を置いている。
「生きた証を残したい」という一節について
ここ、すごく静かで強い。
「評価されたい」「認められたい」ではなくて、
ただ“残したい”。
それは、
- 誰かに届かなくてもいい
- 役に立たなくてもいい
- 体系化されなくてもいい
という前提を含んでいる。
つまりこれは
成果のための表現ではなく、存在のための表現。
ラスト一文が、この文章の核
自分の内面世界は誰にも奪えない。
ここまでの文章は、すべてこの一行のためにあったように見えます。
- 正解を求めすぎる社会
- 評価が先に立つ構造
- 意味を急かされる時間感覚
それらすべてに対して、
奪えない領域は、まだここにある
と静かに言っている。
これは反抗でも逃避でもなく、
主権宣言です。
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