あらゆる物事に対する意味は自分が作り上げていく

はじめに
仕事では、役割が与えられている。
だから、意味があるように思える。
一方、休みの日は役割が存在しない。
だから、意味がないように思えることもある。
「人間はまず存在し、のちにその本質をつくる」とは?
サルトルは、「人間はまず存在し、のちにその本質をつくる」と言った。
実存は本質に先立つ。
それは、人間は「最初から決まった目的や役割を持って生まれてくる存在ではない」ということだ。
たとえばハサミは「紙を切るもの」としてつくられるが、人間にはそうした固定された意味がない。
どんな役割や意味を持つかは、自分の選択と行動によって後から決まっていく。
「私はこういう人間だ」というのは、生き方の積み重ねによって自分自身が意味づけできる。
私という毎日生まれ変わる存在(実存)は、何にだってなれる(本質)という非常に希望のあるお言葉。
仕事をしている自分は本質か?
私にとってのリモートワークは、成果や進捗が見える形で現れるため、非常に「意味ある行為」として感じられる。
与えられた役割に意味を見出す一方で、それが本当に自分の「本質」と言えるのかという問いがある。
その問いは、休みの日の自分自身に絶望を感じることで、露わになる。
世界は意味を与えてはくれないが、それでも我々は意味を求めずにいられない
アレキサンドロスのライブに友達と行ってきた。
ライブ会場では、多くの人と音楽を共有する一体感があり、私はその空間を十分に楽しむことができた。
むしろ、音楽の力と人々の熱気に包まれて、生の豊かさを感じる瞬間だった。
しかし、ライブ後に耳の調子が悪くなり、予定していた友人との飲み会をキャンセルして1人で帰宅したとき、私は自分の本質を見失っていた。
そして、楽しかったはずの時間の反動のように、孤独と虚無が波のように押し寄せてきた。
そのときはまだカミュについては知らなかったが、今振り返ってみれば、あれこそが彼の言う「不条理」に近い感覚だったのではないかと思う。
彼は『シーシュポスの神話』の中で、「世界は意味を与えてはくれないが、それでも我々は意味を求めずにいられない」と述べた。
そして、その不条理を認めつつもなお、生きることを選び続ける姿勢を肯定した。
仕事にも、それ以外にも、意味を求めてしまう。
それが、人間の本質なのかもしれない。
絶望と向き合うことで初めて自分の本質が見えてくる
役割がある平日だけではなく、人によっては、土日にも意味ある活動を詰め込み、空白を感じないようにしているのかもしれない。
しかし、人生にはいずれ「意味が揺らぐ時期」が来る。
老い、病、死。
そこでは社会的役割も、他者との関係も、かつてのようには機能しない。
これはキルケゴールが『死に至る病』で述べた「絶望」の感覚に通じる。
彼は、自己が自己であることをやめようとする絶望こそが人間の本質だとしたが、その絶望と向き合うことで初めて「本来的な自己」に近づけるとも説いた。
絶望的な心の状態であれば、どんな些細な出来事も希望に変わる。
そんなチャンスがある。
意味の創造は自分の手に
「意味のない世界」において、「意味をつくる方法」は多様であってよい。
友人と語り合うこと。自然の中で呼吸すること。言葉を綴ること。
自分にとってその行為がどういう感情を生み出すのか。
そして、その行為をしている自分のことを好きでいられるのか。
最終的には、それを基準にして行動を選んでいけばいいと思う。
意味は世界にあるのではなく、自分が作り出していくものなのだから。
思えば、仕事は最初は無意味な世界だったが、月〜金まで一日8時間費やす中で、自分なりの意味を作り上げていった。
ロールプレイングゲームのように、プレイ時間が長くなっていくにつれて、自分の本質が反映される。
だから、休日には虚無感を感じてしまうこともある。
でも、だからこそ、仕事を自分の本質とせずに、自分の考えを自分の本質として、すべての物事と関わっていこう。
3人の哲学者との対話
この記事で触れた「意味をつくる」というテーマは、3人の哲学者の言葉と深くつながっている。
まず、サルトル(1905–1980)は「人間はまず存在し、のちにその本質をつくる」と述べた。
これは、人間には生まれながらの役割はなく、生き方によって意味づけされる存在だという考え方だ。
次に、カミュ(1913–1960)は「世界は意味を与えてはくれない。それでも我々は意味を求めずにいられない」と語った。
不条理な世界の中でも、自ら意味を探し続ける人間の姿を肯定している。
彼が言う「不条理」とは、意味を求める私たちと、無関心な世界とのズレから生まれる感覚だ。
それでもなお、意味を探し続ける人間の姿に、彼は希望を見出していた。
そして、キルケゴール(1813–1855)は「自己が自己であることをやめようとする絶望こそが人間の本質」と述べ、絶望と向き合うことで本当の自己に近づけると説いた。
この3人の哲学者の言葉は、日々の選択に迷い、意味を模索する私たちに、静かな勇気を与えてくれる。
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