点ではなく線、今だけではなく、過去から今
はじめに
業務で社内の知識に触れるたびにそれを実感する。
一つの知識は、過去から現在の大きな文脈の中の一つに過ぎない。
と考えると、一つの点から、過去から今までの線をイメージできるかどうかというのが鍵になってくる。
ドキュメントを読んでいる時
ある社内の特定の業務について書かれたマニュアルの一つの章をあなたが読んでいるとしよう。
その章、単体では意味を成さない。
その章は全体の中の一つとして意味をなす。
文も
一つの文章も、いくつかの単語が組み合わさって出来ている。
単語だけでは意味を成さない。
一部と全部
自分が言いたかったのは、B’zのイチブトゼンブなのかもしれない。
木を見て森を見ずということわざもあるが、一部は全部に繋がっている。
何かを理解するということは
何かを理解するには、全体像を押さえた上で、部分を見ていく必要がある。
両輪で行かなければならない。
わからないことを質問することの本質
自分だけで調べて得た知識は、その物事の一部について言及しているだけかもしれない。
まだ、文章化されていない、わかっている人だけが感覚的に掴んでいるということがあるかもしれない。
それをお伺いすることで、物事が立体的に浮かび上がる。
自分一人の視点を固めた上で、聞いてみる。
そうすることで、生産的な時間になる。
以下、ChatGPT 5.2 Thinkingに聞いてみた内容
かなり本質的な回答が得られた。
これだから、AIはやめられない。

点ではなく線が「理解」に効く理由
解釈学(哲学)では、テキスト理解は「部分」と「全体」を往復しながら深まると考えます。これがいわゆる**解釈学的循環(hermeneutic circle)**で、全体像の仮説を持って部分を読み、部分の発見で全体像を更新し、また部分に戻る……という運動です。これは単なる読み方のコツではなく、「理解という行為の構造」そのものだ、という位置づけです。
ここで大事なのは、「線」は“過去の履歴”というより、自分の先入観(前提)も含む、という点です。解釈学では、人はまっさらな状態で読むのではなく、必ず「こういうものだろう」という前構え(予期・前理解)を持つ。だから理解は、過去(伝統・経緯)と現在(読む私)の出会いとして起きる。
私が業務のドキュメントで感じた「過去から今の大きな文脈」は、この哲学的構造とかなり一致している。
理解は、単に情報を足し算して増やすことではない。
いま目の前にある部分を読むとき、私はすでに何らかの
前提(こういう話だろう、こういう意図だろう)を持っている。
その前提があるからこそ部分が読め、部分の発見が前提を書き換える。
だから理解とは、部分と全体を往復しながら、自分の前提そのものを
更新していく運動である。
「章単体では意味を成さない」を科学側から支える話
認知科学・読解研究の側でも、「理解は文字情報の積み上げだけではない」というのは定番の見方です。
スキーマ(背景知識)が“意味の土台”になる
読解では、人は頭の中の**スキーマ(schema:知識のまとまり)**を使って、文章の空白を埋めたり、要点を予測したりします。つまり、文章理解は「文字→意味」だけのボトムアップではなく、背景知識を使うトップダウンが同時に走る。
業務マニュアルの章が単体で薄く感じるのは、読者の頭の中に「その章が乗るべき全体スキーマ」がまだ育っていないから、という説明ができます。
文章を読むとき、人は文字を追うだけではなく、
過去の経験や知識のまとまり(スキーマ)を使って、
意味を予測し補完している。
つまり、全体像の仮説がない章は、情報としては読めても、
意味としては立ち上がりにくい。
「一部と全部」は“歌詞の比喩”ではなく、理解のメカニズムそのもの
あなたが B’z の イチブトゼンブ を連想したの、かなり本質を突いています。
- 全体像がないと、部分は“ただの文字列”になりがち
- でも部分を精密に読むことで、全体像も更新される
- その往復で、意味が「平面→立体」に変わる
この“立体化”は、後半の「質問することの本質」にも直結します。
暗黙知:わかっている人は“説明できない形”で知っている
組織には、文章化されていない「できる人の勘」があります。哲学・科学というより知識論ですが、Michael Polanyi が指摘したのは「人は言語化できる以上のことを知っている」という事実です。
業務で言うと、たとえば:
- 例外処理の“空気”
- 実運用の優先順位
- 「この手順は守るが、この手順は状況で崩す」みたいな判断軸
こういうのはマニュアルに書ききれない。でも実際には、そこがパフォーマンスを決める。
あなたの「まだ文章化されていない、わかっている人だけが感覚的に掴んでいることがあるかもしれない」は、まさに暗黙知の射程です。
仕事ができる人の知識は、説明可能な文章の形だけでは存在していない。
手順の背後にある判断軸、例外の見極め、優先順位の付け方は、
言葉にできる範囲を超えて体に宿っていることがある。
だから質問とは、単なる不足情報の取得ではなく、
その人の暗黙の判断基準を借りて、
自分の中に“全体像の骨格”を立てる行為でもある。
「生産的な質問」に変えるための具体フレーム
あなたの最後の2行(「自分一人の視点を固めた上で、聞いてみる」)は実務的にかなり強いです。これを“型”にすると再現性が上がります。
- 自分の仮説:「私は全体をこう理解しました(図でもOK)」
- 不確実点:「ただ、ここが2通りに解釈できて迷っています」
- 判断軸の質問:「この場面で何を優先して判断しますか?(速度/安全/監査/顧客影響など)」
- 例外の質問:「例外はどんな時に起きますか? その時どう逃がしますか?」
- 歴史の質問:「この仕様になった背景(過去の事故/制約)は何ですか?」
こうすると、相手から出てくるのが“点の答え”ではなく、“線(背景・判断軸)”になりやすいです。
まとめとしての哲学的帰結
あなたの文章が触れているのは、結局こういうことだと思います。
- 理解とは、情報を集める行為ではなく、文脈(歴史・目的・制約・判断軸)を編む行為
- 部分(点)は全体(線)に照らされて意味を持ち、全体(線)は部分(点)によって更新される
- 質問は、欠けた情報を埋めるだけでなく、暗黙知と実践の文脈を受け取り、理解を立体化するための装置
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