私が話すときにいつも感じていること

はじめに

何か話した後に、「もっと話したい」と思うことが多い。

話を聞いてもらえていると感じたときにそうなることが多い。

そんなことについて書いていきたい。

今朝の出来事

久しぶりに、朝イチスタバに挑戦してみた。

以前の記事で紹介した無印の浄水ポットについて店員さんに話題にしてもらえた。

そこで話し足りないと思ってしまった。

話し続けることは、目的からはずれている。

目的は、席でコーヒーを飲んでサードプレイスを楽しむこと。

店員さんの立場

店員さんもお客さんとの会話の塩梅が難しいと思う。

忙しい名古屋の店舗とかだと、一人一人のお客さんと雑談している暇なんてないだろう。

話す分量の調整

状況に合わせて自分が話す分量を調整するのがいいだろう。

空気を読むとも言えるかもしれない。

空気を読むか作り出すかといったことは、以前の記事でも書いた。

知らない人に話しかけるということ

高校生の受験で愛知県から東京に新幹線で行った時は、なぜか隣に座った女の人に話しかけた。

その人は、夜勤ですと言っていた。

今はしない行動かと思う。

当時は、友達と休みの日に朝から晩までコミュニケーションを取っているのが日常だった。

だから、近くに人がいたら雑談するのが当たり前になっていたのかもしれない。

いや、受験という挑戦をしていたから、知らない女性に話しかけるという挑戦をしてみようと思ったのかもしれない。

決定論か確率論か

柔らかい頭の使い方という細谷さんが書いた本を最近読んでいる。

その中で、うまく行ったやり方でしか行動しない決定論か、やってみなければ分からない確率論かという話が出てくる。

個人的には、確率論の方を推したい。

理由はその方が人生を楽しめるから。

ワンオクの「キミシダイ列車」にあるように、 Try and Tryしてみたい。

話をもとに戻すと、知らない人に話しかけるという行動は、決定論ではなく、確率論だ。

上手くいくかどうか、それは、やってみなければ分からない。

人事を尽くして天命を待つということだ。

上手く行った場合は、その人と友達になれるかもしれない。

上手くいかなかった場合を考えてみよう。

上手くいかなかったとしても、無視されるのが関の山だ。

死ぬことはない。

死ぬこと以外かすり傷。

その時はショックかもしれないが、経験値が増える。

そして、自信が雪だるま式についていき、次のチャンスがあった時に、またやってみようと思える。

 

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