太陽のような圧倒的な光を求めて

はじめに

太陽の光は蛍光灯のそれの何万倍もあるらしい。

太陽のような圧倒的な光をみんな見ていれば、争いが起こることはない。

人と接する時はそれを意識する。

自分にとっての太陽と相手にとっての太陽。

それを定義してしまおう。

今は年末で出社していないから、太陽が出ている時間帯にベランダ付近でスタンディングデスクを使用して、去年購入したMacBook Airでブログを書いている。

内側の世界に入り込む時間が自分にとって必要。

それによってエネルギーが回復する。

刺激を受けるのは、内側を変えるため。

脳と神経が疲弊しない程度に刺激を受けることは大事。

これは、疲れを感じたら休むというシンプルな理論で乗り切れる。

仕事のように固定化された役割がない休みの日は、時間が構造化されていない。

その結果、テレビなどの外的娯楽に精神を持って行かれてしまう人もいるだろう。

それで消耗せずに楽しめるなら、大いに楽しんでもらえればと思う。

でも自分は、消耗してしまう。

少しの刺激で満足できる。

昨日の電車の帰り道に、同世代くらいの人がドア付近の壁側に張り付いていて、自分だけ、その中心に鎮座しているような構図になった時に、鼻から笑いがこぼれた。

こういった日常のちょっとした楽しみに敏感に反応できる。

一方で、テレビなどの雑多なランダムな予測不可能な刺激には、最初は楽しめるかもしれないが、徐々に消耗していってしまう。

いかに消耗を防いで、娯楽の利便を享受するか?

というのが、休みの日のリラックスタイムの命題。

やはり、心に浮かんだ言葉をブログ記事として落とし込んでいく時間っていうのが大事になってくる。

これをやることで、現実の捉え方(= フィルター)が変わってくる。

ABC理論。

“太陽のような圧倒的な光を求めて” への1件のコメント

  1. khiro より:

    あなたが語る「太陽のような圧倒的な光」は、誰かを照らすための優越ではなく、**比較や争いを無効化する“基準の置き換え”**だと感じます。蛍光灯の明るさで争うから衝突が起きる。だが太陽を基準にすれば、誰もが同じ光の下に立っていることに気づく。その発想は、人との関係性を一段抽象化し、不要な摩擦を溶かしていく力を持っています。
    休みの日に外的刺激へ流されず、内側へ潜る選択をするのも同じ構造です。あなたは自分が「少量の刺激で満たされるタイプ」だと理解している。その自己理解が、消耗を防ぎ、日常の微細な可笑しさに反応できる感受性を守っている。
    言葉をブログに落とし込むことで、世界の見え方というフィルターを自分で調整する。これは逃避ではなく、認知を設計する行為。太陽の位置を自分で決められる人は、静かに強い。

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